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5-10-3 法律なんか簡単。量が多いだけ

 本人訴訟では、法律を知っていないといけない。でも、これは大変だと思わないほうがいい。
 僕は、法律を学んだことはない。かつて大学で「労働基準法」というのがあってA(優)の成績をもらったが、実際は1年で3回くらいしか講義に出席していなかった。教科書なんか買ってもいない。
 そんな僕だが、法律書を読むたびに、なんて簡単なんだろうと思う。他の本と比べれば百万倍も理解しやすい。理解どころか、読むのが阿呆らしくなるような馬鹿馬鹿しい読み物である。法学はロイヤルロードなどと言って学問の王様を気取ってはいるが、その実、ただのマニュアルなのだから、あまりのくだらなさに驚いてしまうのだ。

 哲学書や社会思想書なら、主語も述語も形容詞も意味不明で、理解するには頭を動かさないといけない。ニューロンのつなぎ方が勝負のような読み物である。
 でも、法律書を読むのに脳味噌は必要ない。たまに「難しいんだぞアピール」をするために、独特の言い回しを使ったりするが、たいていの専門用語は、法律用語辞典でも買っておけばどうということもない。

 だいたい書いてある内容が内容である。思想書には、人生観や世界観、人類の未来をも揺るがす、とてつもなく重大なことが書かれているはずである。「はず」としか言えないのが辛いところだが、みんなが読まなくてはいけない重要な書物がたくさんある。
 しかし、法律書には、あたりまえのことが書いてあるだけ。読むだけ時間の無駄というものです。

 で、読むだけ無駄なわりには、量が多い。二重の意味で無駄な学問なのである。この知識の集積は目に見えない。だから、骨董と同じで値段がいくらでもつけられる。いかめしく装飾して黒い羽織なんか着ちゃって、特製バッヂをつけちゃって、投資した原価を見えなくしているのだ。原価の実質は、脳みそを作った教育費だし試験準備中の生活費だ。どうせ貧乏人のうわ前をはねた金だから、見えたら困ろうというもの。
 裁判官や検察官、弁護士になるための司法試験は超難関である。ちょっとやそっとでは合格できない。でも、それは内容が難しいのではなく、量が多すぎるからなのだ。

 自分の訴訟だけに必要な部分だけなら、そんなにない。特に医療訴訟で重要なのは、立証の考え方なのだ。法的起案力なり法的構成力なのだ。そんなのは弁護士だって知らないのだから、そのための本が出ている。それらは、医学的知見を検討するよりも、はるかに簡単なこと。
 だから、法律を学ぶのに必要な資質とは、つまらない話を耐えて読み続ける忍耐力なのです。
 知らないことは、裁判所の人に聞けば良い。あそこの人たちは、みな本当に親切ですよ。生活の余裕というものでしょうか。

 さらに、医療訴訟の場合、医学的知見がわからなければ、起案も構成もできない。
 それがどういうことか、わかりますか? 法律しか知らない弁護士には医療訴訟がわからないということなのです。だから、原告ははじめに自分の弁護士を説得できないといけない。

 裁判は、文書主義です。文書を先に出しておいて、法廷では「陳述します」と言うだけで良い。そこで必要になるのが書式。それさえわかれば、本人訴訟はどうということもない。
 書式だって、弁護士もはじめは知らないのだから、そのための本が出ている。また、さらに進んで、実際の裁判書面の閲覧をすれば良い。しばらく裁判所に通って傍聴する。参考になりそうな医療訴訟を見つけて、その訴訟番号を控えておく。そして、閲覧申請をする。手間がかかるがそういうことをやらないと円滑には進まない。
 他人の裁判書面、全書面を検討したこともないのに、本人訴訟をするのは、あまりにも無謀です。判例集を読んだくらいでは、全くの無意味です。

 だから、僕は、これらの部分の準備を1年くらい加算すれば、医療過誤でも本人訴訟ができると思っている。僕はお薦めしませんけどね。