2 疑惑の段階/素人の直感は正しい
過誤の疑惑を持つときは、明らかにわかるミスもあるが、多くが医師が嘘をつくことを発端としているのではないかと思う。
その嘘は、患者や家族のためを思ってついた嘘もあるだろう。別段どうということもない、ささいなミスをごまかすための嘘もあっただろう。単に表現が下手だったせいで、あるいは言葉不足のせいで、誤解を招くこともあるだろう。しっかり診療しなかったり、医療知識の不足のために、結果的に嘘になることもある。そして、致命的な間違いを隠すために嘘をつくこともある。
不思議なもので、それらの嘘には、医学に素人の患者も「何か変だ」と思うもの。そして、ひとつの嘘を見破ったとき、それは誤解かもしれないが、あれもこれもと疑惑が浮き上がってくる。
見破るときは、病状が悪化したときだ。それまでは、さほど気にとめない。酷い結果になったとき、直感的に「おかしい」と確信する。
「あいつがあのとき感染事故を起こしたんじゃないか」「やったこともないのに、なぜ自分でやろうとしたのか」「なぜ、医者を呼んでくれなかったのか」「あれほど注意してと言ったじゃないか」「私は目の前で見ていた」「この病院にいたら殺される」
患者に医学知識はないのだから、さして論理的なものではない。出血したと聞いただけで、輸血は必要かと考えるようなもの。感情的なものさえあるだろう。
ところが、カルテを調べると、出てくるんですね。本物の過誤が。
また、患者が寝ているときに、看護師や医師がミスの話をする。でも、患者は起きていた。こういうケースも少なくはないように思う。それが嘘を見破るきっかけになる。
「うちの病院に最初からきていたら、助かったのに」「ミスってた」「あの先生、怒られてたよ」「試しにやってみた」
それらには、誤解もあったかもしれない。意識朦朧としていたり、夢見心地だったりすれば、関係のない話でも想像を膨らますことがあるだろう。
しかし、これまた不思議なもので、そんなところから実際にカルテを調べてみたら過誤が発覚する。
心理学には共時性という現象がある。世俗的にいえば「虫の知らせ」のことである。これを体験した人も多いだろう。科学的には解明されない。けれど、知るはずのないことがわかるという現象。医学を知らないから、なんの証拠もなしに、よけいにわかる。それを直感と呼んだりもする。これを提唱した精神分析医ユングは、ドイツロマン主義哲学の底流を流れるエゾテリスムの系譜にある。近年はないがしろにされているが、そういうことは実際にあるのだからしかたがない。
医療裁判は、これらの疑惑解明の作業となる。
これらが確かに医療ミスと推測できるなら、まだいい。よくわからないのがある。そうなると、その疑念は、患者なり遺族なりが墓場までもってゆくものとなる。
世の中には自分の力ではどうしようもないことはたくさんある。でも、医療事件は、身体と心の奥深くを、尽きることなき苦しみで生々しく包むことになる。自分自身の全存在を賭けて、なんとしても解明しなければ、死んでも死に切れないという話になる。
でも。ここで焦っては駄目。医療事件との闘いは、ここからはじまります。この時点での闘いは、迷宮入りとの闘いです。