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青い鳥 トップページへ戻る > 1 闘いの前に > 1-2 裁判への誤解と幻想 > 

1-2-5 なぜこんなことになるのか/アメフトと陪審員制度

 長らく日本では権力の横暴をなくす土壌が不足している。
 その理由も、裁判がくだらない弁論大会となる理由も、原因は判断を専門家に頼るところにある。専門家とは、医者と裁判官そして弁護士のことである。
 ここでは、刑事裁判を例に出して、アメリカと比較して説明する。

 日本の裁判で検察が全ての証拠を開示しないのは、日本独特の「官を信用する」という風土が、制度の基本的精神となっているためである。ここには「検察官がインチキするはずがない」という盲信がある。
「医者がインチキするはずがない」このような意識を持っている裁判官は多い。医療訴訟専門を標榜する患者側弁護士のなかにもそういうのがいるから始末におえない。豆腐の角に頭ぶつけて死ねとはこのことだ。

 日本の冤罪の原因がここにあるのは明白。アメリカでは、証拠を隠すと重罪となる。アメリカの検察は全ての証拠を開示する。そうでなければ、公平な裁判など成り立たない。あたりえまえの話である。でも、日本は違う。
 医療訴訟でも、全ての証拠が被告側にあって、隠すのも自由。「言われなかったから出しませんでした。それもいるんですか? ならば、手続きをしてください。出します。けっしてわざと隠していたのではありません」よくある話である。

 また、刑事裁判で、検察、被告の双方の同意が必要な証拠があるのは、証拠が、直接証拠と伝聞証拠に分かれているから。裁判には、直接証拠しか出せない。聞きとって書いた文章のような証拠は、双方の同意が必要であるということ。
 民事では自由に出せるが、伝聞証拠の証拠価値は低い。だから証人尋問で直接聞こうということになる。

 さて。検察官には強大な権力がある。
 アメリカでは「強大な権力をもたせると必ず暴走するから、チェック・システムが必須である」という考え方があるが、日本では個人の責任のみに追いやってしまっている。
 悪い検察官がいると、日本では「どうしてあんな検察官がいるんだ?」という話になる。アメリカでは「おかしなのがいるのがあたりまえだろ。だから、監視していないといけないのだ」となる。この発想の違いは、大きい。

 裁判では、事実認識と法的判断という考え方がある。「医療過誤である」というのは事実認識。「どの程度の責任がある医療過誤なのか?」というのが法的判断。
 アメリカで陪審員制度が成り立つのは、「法的判断と事実認定は異なる」ということを国民が常識として持っているからである。
 アメリカンフットボールを見ていて、妙な感触を持つ日本人は多い。アメリカンフットボールは、ボールを持って前進するゲーム。何ヤード何インチ進んだかは、メジャーで精密に測る。けれど、プレー再開時には、だいたいここらあたりだっただろうと、審判は無造作にボールを置く。測った意味なんかじぇんじぇんない。
 ここで、何ヤード何インチ進んだかを精密に測るのは、裁判で言う法的判断。どこからスタートするかは、裁判で言う事実認定。
 日本人の感覚ならば、わざわざメジャーで測ったのだから、審判のボールの置きかたに厳密性を求める。しかし、アメリカ人は全く気にしない。
 アメリカの陪審員制度では、事実認定を民間人の陪審員のみが行ない、法的判断は裁判官のみが行なう。裁判官は事実認定を疑うことができない。
 つまり、陪審員制度では「医療犯罪ありき」と、先に認定されるのである。

 日本では、この事実認定に専門性を求める。求めるどころか、事実認定も法的判断も専門家に頼るべきだと考える。言葉を変えれば「官」に頼るということ。
 そのような思考を前提をもっていては、裁判員制度は成立しない。いきおい、裁判官の意思が重視される結果となり、裁判員の意味は全くなくなる。
 審判に対する考え方が異なっていることは、裁判員制度の大きな問題点である。「死刑判決は辛い」などという報道は、あまりにも脳味噌がお粗末。
 これは、裁判員制度だけの問題ではなく、裁判の本質に関わっている問題。どちらが良いかはともかく、司法改革の出発点はここからなんです。
 医療訴訟で原告が憤慨するのは、専門家に頼るからです。そして、事実認定も法的判断も原告のお仕事。アッチョンプリケなのだったのだったのだったのだ。